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|| COLUMN ||

【第2回】音に含まれるものはなにか

もったいぶっている間に半年近く空いてしまった(汗)
気を引き締めて第二回!です。
 
今回は、見えないものの話。
我々ロックバンド、のみならず音楽に携わる人間が扱う、音という見えないものの話。
 
科学的に言ってしまえば、音とは空気の振動を鼓膜が感知し、それが変換された電気信号が神経を通って脳へ伝わり、「音」として認識したもの、ということになるのだが、これだとあまりに即物的でつまらないので、音楽の「中身」の話をしよう。
 
そもそもの話として、ただの音と音楽の何が違うのかと言えば、音の方が広義であり、雨粒の落ちる音から、人間が歩くときにたてる音など、要するに上記の過程を経て脳へと到達したものは全て音とみなす。
翻って、音楽とは、日本語が良くできているのかどうかわからないが、文字通り楽しめる音というだけでなく、これはきちんと定義されていて、リズム (律動)、メロディ(旋律)、ハーモニー (和声) の三つを持つものが音楽とされている。
 
じゃあその目に見えないけど感じた音楽として出された音には何が入っているのか、という話なのだが、とどのつまり、その音を人間がどう感じるかという話、感覚の話になる。
しかし、どう感じるかということは、そこに人間の発想が伴っていて、同じ音でも、聴く人に感覚と想像力によって感じ方が違う。
音楽に穏やかさを求める人は、ジャズやクラシック、ヒーリングミュージックを良い音楽と感じるだろうし、逆に激しさを求める人は、ロックやメタル方面の音楽を良い音楽として好んで聴くだろう。良い音楽とは指向による、ということになる。
 
現在の世の中には音楽があふれかえっていて、例えば渋谷の交差点なんかでは、音楽が複数の方向から耳に飛び込んでくる。CM の BGM や、音楽の売り上げのカウントダウン広告や、店の店内で BGM として流されていたものなど、本当に様々な音楽が流されている。
その中から、時にふと耳に残ったもの、ん?と気になったもの。そういうものは、その人の感覚によるもので、その感覚が、世間にあふれかえる無数の音楽の中から、指向に合ったものをキャッチしている、ということになる。
 
さて、視点を下げて、ライブ空間の話。音楽を生で聴く場所と言うと、ライブバーやライブハウス、中規模のクラブ、広いホールや、果てはフェスなんかの広大な空間。まあ色々あるわけだ。
 
そこで演奏される音楽には何が入っているかと言うと、私見ながら「熱量」を最大のものとして挙げたい。
ここで言う「熱量」とは、エネルギーとかパッションとか、エモーションとか、聴く人が何かしらリアクションを感じ取れる、あるいは感じ取れそうな、その原動力になりうる音楽の要素を言う。
 
先にも挙げたように、音楽と言うのは、結局聴く人の好みなわけで、聴く人の好み次第で同じ音楽が、至高の存在にもゴミ以下にもなる。
空間も同様で、ライブハウスで至近距離で聴くのが好きと言う人もいれば、コンサートホールで落ち着いて座って聴くのが好き、と言う人もいる。
 
ではそのライブ空間で、演奏者は何をしているかと言うと、仕事だからと淡々と弾いている人もいれば、この一音に人生を凝縮してぶっ込んでいる人もいる。しかし人生を懸けた一音が、100% オーディエンスに届くかと言うとそうでもない。なぜなら、演奏者と聞く人の人生は違うものだからだ。また、ほどほどの技量の人の全身全霊の演奏より、十分な技量を持った演奏者の何気ない演奏の方が、聴く側に何事かを想起させる事例と言うのは枚挙に暇がない。ゆえに論評では「卓越した技量」というフレーズが定番であるし、ライブ演奏が音楽における唯一絶対の存在ではないのだ。とは言っても卓越した演奏者が情熱をこめないで演奏しているかと言うと、そんなことは全くなく、より卓越した情熱の聴かせ方をしているということだ。
 
音楽再生媒体 (つまり CD や mp3 のことだが) に封入されると、音楽の熱量が下がる、という人がいつの世にもいる。現在で言うと、音楽をレコーディングするとなると、DAWを通ってデジタル化されて、ミックスダウンとマスタリングとプレスを経る。そういう経路を経ると、自分の意図した音楽の熱量 (主に荒々しさを指すことが多い) が失われる、という。
 
考えてみれば当然の話で、演奏している側と聴く側にとでは、既に客観性と主観性において歴然とした差異がある。加えて言うならば、例えば脳から神経を通って操作された身体から発せられたエネルギーが、ボーカルであれば声帯を経由してマイクを通るし、ギターであればピックと弦とピックアップとサーキットとアンプとキャビネットを通ってこの世に送り出されること、そして空気の存在を考えてみれば、100% 純粋に再生される音楽など存在しえない。それこそ演奏者の脳に自分の脳をぶっこんでみて初めて現出される話で、まあそういう攻殻機動隊とかアクセルワールドみたいな話はもうちょっと先の未来まで待たねばならない。
 
音楽が環境に左右されやすいという意味では、ライブにはライブの聴かせ方や見せ方があるし、媒体では媒体での聴かせ方とレコーディングの仕方、アレンジの仕方があるのは当然と言えるし、それを聴く人の聴こえ方が違ったとしても、それもまた当然と言っていいだろう。
 
以前、レコードと CD では封入できる音域に差があるという話が、ちょっとネット上で話題になったことがあったのだが、ライブ空間と再生媒体にも同じことが言える。たいていのライブハウスやコンサートホールのメインスピーカーは非常にワイドレンジで、そのへんで気軽に買えるイヤホンやヘッドホンとは再生できる音域の幅と再生能力は比較にならない。ライブ空間で聴くのが好きな人は、そういう所を聴いているのだろうし、ライブ演奏に興味がない人は、そのあたりはあまり必要としておらず、整った音質、あるいは音源でしかできない音楽のアレンジや聴かせ方を音楽に要求しているのだろう。
 
ここで、ライブ空間にしかないこととして、「共有」を挙げたい。アマチュアバンドの対バン形式のライブではほとんどすべてが初見なのでともかくとして、ことエンターテイメントとしてのロックシーンで言えば、ある程度の規模のライブ空間では、聴く側が生演奏に合わせて脳内で音源を再生している。これが大きい。
たいていの場合、そこに来る人は、音源という形ですでにそのアーティストの音楽を体験している。演奏が始まれば、演奏に伴って、脳内の再生と補完も始まる。そこにワイドレンジでのスピーカーでの音の再生、空気の伝達以上の振動を持った空間の共鳴と共振、腕を挙げたり一緒に歌ったりすることでの時間と空間の共有、自分以外のオーディエンスがそこに来ていることや歓声による共感、媒体とは違った音質のバランスの変化による驚き、演奏者の動きや表情、そういった沢山のものが基礎体験に追加されて、体を動かさせるほどの共感や、時間を忘れて音楽に没入させる集中を生み出す。
 
そういった意味では、同じ曲目でも媒体で聴くものと、ライブで聴くものは別物と言えるかもしれない。聴く環境によって、その音楽を由来として発揮される想像力は異なって当然だし、結果として何が見えるか、何を感じたと認識するかが異なってくる。
そしてその何を見たか、何を感じたかということは、作曲者と演奏者の意図によるところが大きい。
 
結論として言うならば、音とはただの空気の振動だが、聴く側の感性と想像力によって、それは音楽になる。そしてそこに何を見るかはリスナーとオーディエンスの自由だが、何を見させるかというのは作曲者と演奏者の腕の見せ所なわけで、そこにこそ熱量の込め具合が試される、というわけだ。

■プロフィール
【JUN】 ヘヴィメタルバンド XECSNOIN (ゼクスノイン) のベーシストとして 2001 年から音楽シーンに参入する。現在は Sirent Screem、MaKORN にて活動中。00 年代後半より SNS 上でで個人名義でコラム執筆を開始。2015 年から、物書きを本格的に始める。在独経験を基にした独自の観点で、音楽はもとより、比較文化論から政治経済に至るまで多岐にわたり論評を展開中。その独特のわかりやすさ重視の文体が好評を博している。趣味はモータースポーツ在宅観戦。 
 
※個人ブログ  ⇒ 『長文御免』